常設作家

高田 博厚 たかたひろあつ (1900-1987)



カテドラル

高田博厚は、1900年(明治33年)石川県七尾に生まれ、幼年期を福井県で過ごした。若くして哲学と語学に秀で、18歳で上京、高村光太郎など知識人との交流を深めつつ独学で彫刻を 始め、また当時、白樺派に贈られたロダンの彫刻《ロダンの夫人》に強く打たれた。
1931年(昭和6年)単身渡仏し、以降26年間をパリで過ごす。この間、ロマン・ロランやアラン、ガンジーなどと親しく交わり、彼らの肖像制作に励んだ。これがヒューマニズムの思想潮流とあいまって、戦後、高田を一躍有名にすることになる。


ロマン・ロラン

終戦直後は、ドイツで難民になるなど、生死の境をさまよう苦難を経た。1957年(昭和32年)に帰国し、東京、後に鎌倉にアトリエを構えて制作に励むかたわら、執筆活動も盛んに行い、多くの著作を残した。フランスの精神文化を伝えるこれらの文筆は、多くの高田の愛好家を生み、今なお変わらぬ人気を保っている。高田は1987年(昭和62年)鎌倉市にてその生涯を閉じた。



マハトマ・ガンジー

日本の近代彫刻史において高村光太郎や萩原守衛をロダン受容の第一世代とするなら、高田はそれを引き継いだ第二世代となる。ロダン、ブルーデル、マイヨールといった近代彫刻の流れを吸収し、西洋的な人体造形をなしたところに、高田 彫刻の特徴があるといえる。そのことが、高田作品の国際性を保証することにもなっている。当館には、ご遺族、関係者のご厚意を得て、高田博厚の彫刻作品のほぼ大半が収蔵され、およそ100点にも及ぶ作品をいつでも常設展でご覧いただけます。

 

高田博厚年譜

西暦

元号

年齢

高田の出来事

1900

明治33

0

8月19日、石川県七尾に高田安之介(司法官)の三男として生まれる

1903

明治36

3

安之介、弁護士開業の為、一家で福井市に移り住む

1910

明治43

10

安之介逝去

1912

大正01

12

幼少より母に連れられてプロテスタント教会に通い、この年に洗礼を受ける

1918

大正07

18

福井中学卒業東京美術学校受験に失敗 富沢直に誘われ高村光太郎を訪ねる

1919

大正08

19

東京外国語学校伊語科入学

1920

大正09

 

光太郎のアトリエで尾崎喜八に会遇する

1921

大正10

21

外国語学校を退学、喜八の薦めで「ミケランジェロの書簡」を訳し「白樺」にて掲載
澤田庚子と結婚、この頃岸田劉生のアトリエを訪れ、絵画では彼にかなわないと決心し、彫刻へ転ずる

1923

大正12

23

長男秋生生まれる

1924

大正13

24

西荻窪にアトリエを建てる

1925

大正14

25

光太郎、高橋元吉、長尾宏也、松田利勝らと共産村「赤い家」を下高井戸に建てる

1927

昭和02

27

光太郎に促され、武者小路実篤主唱の大調和展に作品を出展

1928

昭和03

28

谷川徹三を通じて知った、古谷網武が中原中也、小林秀雄、大岡昇平らを連れて毎日の様にアトリエに来る

1929

昭和04

29

梅原龍三郎の国展に光太郎とともに参加  岸田劉生逝去

1930

昭和05

30

国展に「中原中也」「小山富士夫」「少女の首」を出品娘の和子生まれる

1931

昭和06

31

2月妻と4人の子供を置いて渡仏 4月スイスにロマン・ロランを訪ねる 冬にロマン・ロランに招かれスイスにそこに滞在していたマハトマ・ガンディーを素描

1932

昭和07

32

2月アランを訪ね、彼の像を作る 5月スイスにロマン・ロランを訪ね、彼の像を作る

1933

昭和08

33

日本の妻より離別されていたことを知る

1934

昭和09

34

フランスより国展に十点ほど出品

1936

昭和11

36

武者小路実篤を伴い、ルオーとピカソを訪ねる

1937

昭和12

37

中原中也逝去

1938

昭和13

38

パリ日本美術協会を設立、秋、ベルネーム・ジューヌ画廊で第一回展「女のトルソ(カテドラル)」を出品

1939

昭和14

39

シャルパンティエ画廊でパリ日本美術協会第二回展

1940

昭和15

40

毎日新聞パリ兼ヴィシー特派員となるパリ外国記者協会副会長に就任
ドイツ統制下のフランスで記者の立場を使いフランス抵抗派を援ける

1944

昭和19

44

12月ロマン・ロランの死をベルリンにてスイスの新聞で知る

1945

昭和20

45

ソビエト軍により米軍占領地まで運ばれ、難民収容所で一年を過ごす

1946

昭和21

46

フランスに戻るが、コタンタン通りのアトリエは没収

1948

昭和23

48

カンヌ映画祭の日本代表を以後10年つとめる

1949

昭和24

49

日仏間文通再開とともに読売新聞嘱託となる

1950

昭和25

50

母、高田敏子逝去

1951

昭和26

51

アラン逝去

1953

昭和28

53

最初の妻であった、庚子逝去

1956

昭和31

56

光太郎逝去

1957

昭和32

57

在仏中の作品を全て壊して帰国 東京西落合にアトリエを借りる

1958

昭和33

58

ジョルジュ・ルオー逝去

1959

昭和34

59

高村光太郎賞選考委員会「高村光太郎」を制作

1960

昭和35

60

「ガンディーT」を制作

1962

昭和37

62

「海」を制作

1963

昭和38

63

「女のトルソ」制作

1966

昭和41

66

鎌倉にアトリエを建てて移り住む 大野常と再婚

1967

昭和42

67

「梅原龍三郎」制作

1968

昭和43

68

「西田幾多郎」制作

1970

昭和45

70

「高橋元吉」制作

1971

昭和46

71

「宮澤賢治」制作

1972

昭和47

72

「富岡鉄斎」制作

1973

昭和48

73

「横たわる女」制作

1974

昭和49

74

「ジョルジュ・ルオー」「イザベル・ルオー」制作

1976

昭和51

76

「岸田劉生」制作 武者小路実篤逝去

1978

昭和53

78

「空」「地」制作

1981

昭和56

81

「遠望」制作

1982

昭和57

82

「礼拝」制作

1983

昭和58

83

「大地へ」試作、「中野重治」制作

1985

昭和60

85

「大地へ」制作

1986

昭和61

86

梅原龍三郎逝去

1987

昭和62

87

6月17日、鎌倉市の病院で永眠 鎌倉霊園に眠る

 

宮 芳平 みやよしへい (1893-1971)


自画像

宮芳平は、1893年(明治26年)新潟県堀之内町に生まれた。日本海に沈む夕日の美しさに感動して画家になることを決意し、上京後、東京美術学校に入学する。1914年(大正3年)第8回文部省美術展覧会に作品「椿」を出展するも落選、審査主任であった森鴎外を訪ねたのが縁で、以後、知遇を受けるようになる。文豪と画学生とのさわやかなこの交流を、鴎外は短編小説『天寵』に著した。


椿

1915年(大正4年)第9回文展に入選後、日本美術学院洋画部にて村山槐多、山崎省三らと共に学ぶ。その後、新潟県柏崎、神奈川県平塚と移住しつつ、中村彝に師事し、曾宮一念とも生涯にわたる交友を結ぶ。 1923年(大正12年)諏訪高等女学校(現諏訪二葉高校)に、彫刻家清水多嘉示の後任として赴任し、美術教師として多くの教え子たちに愛された。戦後は国画会出展を中心に自己の画境を進め、晩年にはエルサレムなどの聖地を巡礼し、敬虔な祈りのうちに、1971年(昭和46年)京都で生涯を閉じた。


黒い太陽(絶筆)

当館には、ご遺族より寄贈いただいた、この作家の生涯にわたる作品を収蔵しています。落ち着いた色調と強烈な厚塗りで描き上げた独自の油彩の世界は、鴎外が若き日にこの画家に『天寵』を見たゆえんを物語るものでしょう。当館では常設展示にて晩年を過ごした諏訪のアトリエを再現したコーナーや、鴎外ゆかりの作品「椿」や絶筆「黒い太陽」など、およそ60点の作品を展示しております。

 

宮 芳平年譜

1893年(明治26年) 6月5日、新潟県堀之内村(現魚沼市)に生まれる。なお、歌人の宮柊二は甥にあたる。
1911年(明治44年) 上京し、太平洋画会研究所に、ついで白馬会の研究所に学ぶ。
1913年(大正2年) 東京美術学校入学。曾宮一念と知り合い、終生の交友関係を結ぶ。
1914年(大正3年) 大正博覧会に作品「カーテンに」出展。父・末八死去。第8回文展に「椿」を出展するも落選。その理由を聞きに、文展審査主任であった森鴎外を訪ねたのが縁で、以後知遇を受ける。鴎外は宮を主人公に小説「天寵」を執筆し、雑誌「アルス」創刊号に寄稿する。
1915年(大正4年) 第9回文展に「海のメランコリー」を出展。「歌」を鴎外に買ってもらう。
1916年(大正5年) 「落ちたる楽人」を鴎外に買ってもらう。
1917年(大正6年) 日本美術院洋画部に入り、村山槐多、山崎省三らとデッサンの勉強を競う。
新潟県柏崎に赴き、洲崎義朗の世話で個展をひらく。柏崎商業学校の嘱託とな
1919年(大正8年) 新潟県柏崎に赴き、洲崎義朗の世話で個展をひらく。柏崎商業学校の嘱託となる。
1920年(大正9年) ロシアの亡命詩人エロションコが柏崎の海岸を泳いでいる姿を見て感動する。
神奈川県平塚に移る。曾宮、崎の紹介で中村彝に師事。
1922年(大正11年) 7月9日、森鴎外死去。葬儀には出向いたが、参列はしなかった。
1923年(大正12年) 中村彝、曾宮一念の薦めで、清水多嘉示フランス留学の後任として、
諏訪高等女学校(現諏訪二葉高校)に赴任、平野高等女学校(現岡谷東高校)、
諏訪蚕糸学校(現岡谷工業高校)嘱託を兼任。
1924年(大正13年) 帝展に「自画像」を出品するが落選。審査員の一人だった中村彝は、それを惜しんだ。
その彝も12月24日に死去する。
1933年(昭和8年) ガリ版の自家謄写印刷による個人通信誌「AYUMI」発刊。
1934年(昭和9年) 10月、諏訪で個展を開く。発起人は高村光太郎、倉田白羊、会津八一、曾宮一念。
1938年(昭和13年) 旺玄社会員になる。
1939年(昭和14年) 岩波書店の鴎外研究28号に鴎外との思い出をつづった「天寵前後」を書く。
1956年(昭和31年) 銀座で個展を開く。
1958年(昭和33年) 諏訪二葉高校を退職。高校の教え子たちを中心とした後援会の協力により、
諏訪市美術館で個展を開く。その後、京都に一時転居。
1960年(昭和35年) 諏訪市大熊に新築したアトリエに帰り住む。
1961年(昭和36年) 国画会会員となる。個人通信誌「AYUMI」(後書)を発刊
1962年(昭和37年) 「文学散歩15号」に鴎外との思い出をつづった追憶の文を寄稿する。
1965年(昭和40年) 銀座で個展を開く。
1966年(昭和41年) 聖地巡礼の旅に出、ローマ、エルサレム等をまわって帰国。
1970年(昭和45年) 歌誌「コスモス」に連載された紀行文「聖地巡礼」が、一冊にまとめられて出版。
銀座、諏訪、岡谷にて個展。
1971年(昭和46年) 3月30日、京都で死去。
 

小林 邦 こばやしくに (1906-1990)


1906年(明治39年)南安曇郡穂高町(現安曇野市)に生まれ、生涯信州の地で制作を続けた洋画家です。中央では、国画会展3期連続国画奨学賞(現国画賞)受賞をはじめ、在野の国画会同人として活躍。晩年には信州美術会会長を2期務めるなど、その飾らない人柄と真摯な制作態度により、広く後進の画家たちからも敬愛された。当館には、その 油彩画、デッサン、スケッチブック等177点が所蔵されており、その中から若干数を常設展示しています。

 

奥村光正 おくむらみつまさ (1942-1997)


1942年、南安曇郡豊科町(現安曇野市)に生まれた洋画家・奥村光正は、1997年、55歳という若さでこの世を去りました。中学時代から油絵に親しみ、松商学園高等学校から東京芸術大学の油画科に進んだ彼は、大学院在学中から新制作協会展で新作家賞を連続して受賞するなど、画家として華やかなデビューを飾ります。芸大の小磯良平教室の助手を経て、1972年、30歳で結婚すると同時に夫人とともにパリに渡り、以後突然の死が襲った晩年までかの地で精力的に制作を続けました。ご遺族より寄贈いただいた収蔵品の中より若干数を常設展示 しています。

 

飯沼一道 いいぬまかずみち (1940-2008)


南安曇郡豊科町(現安曇野市)に生まれる。1966年東京藝術大学大学院を卒業し、長野県高等学校教員として採用。1974年からは国画会会員に推挙、審査員となる。1990年県展の審査長をつとめ、2000年には松本市芸術文化功労表彰を受賞。2002年度版松本郵便局管内の年賀状に作品「松本城」が使用される。中信美術会や信州美術会の発展にも尽力。また、高校美術教諭として松本美須々ヶ丘、田川、松本県ヶ丘などで精力的に学生を指導し、定年退職後はエクセラン高校で美術を教えた。2008年5月23日に67歳の若さで逝去する。作品一点を 休憩室にて展示 しています。

 

 

 収蔵作家
 

小室孝雄 こむろたかお (1892-1955)



1892年(明治25)0歳 穂高上原に生れる。1914年(大正3)22歳 岡田三郎助に師事して本郷洋画研究所に通い、油絵の研究に精進する。1917年(大正6) 第9回文部省美術展覧会に初入選し、その才器が認められる。東京杉並区西荻窪に住み、画家の生活をする。片倉氏の後援紹介によって、朝鮮・満州・北支に画行脚を送る。恩師で、後の陸軍主計中将西原氏の推薦により、従軍画家として実の絵筆をふるう。春台美術会・新日本美術連盟・緑巷会等の美術団体に関係して、日本洋画壇に活躍する。池上秀畝・中村不折・丸山晩霞等の諸先輩と協力し奔走して、信濃美術会を創立する。1955年(昭和30)9月29日 63歳 病気のため亡くなる。

 

辻野弘之 つじのひろゆき (1927-)



1927年(昭和2年)大阪に生まれる。終戦後、安曇野に滞在。1949年から大阪市立美術研究所、1954年より武蔵野美術大学で学ぶ。1970年代は創造展、春陽展に出品し大阪市賞など受賞を続ける。その後は、ギャラリー等での個展を中心に活動を続け、縁あって、1995年豊科近代美術館にて「辻野弘之銅版画展」を開催し、当館へ作品11点を寄贈いただく。

 

岸野圭作 きしのけいさく (1953-)


日本画家。1953(昭和28)年、和歌山県御坊市に生まれる。日高高校在学中から独学で絵画を志し、高校卒業後に専修大学経済学部入学するも、中途退学して絵画の道に進んだ。1976(昭和51)年、日本画の大家「加藤東一」に師事し、同年、日展初入選。以後一貫して日展を舞台に活躍し、1980(昭和55)年と平成元年には特選を受賞してる。1999(平成11)年に日展審査員。2002(平成14)年に安曇野に画室を開く。2005(平成17)年に安曇野市三郷に転居、日展審査員。2006(平成18)年から日展評議員。

 


その他 井上直久・西田幾太郎・大島秀信・木村辰彦・イザベル=ルオー・曽宮一念・清水多嘉示・梅原龍三郎・石井柏亭・山下新太郎 など